昭和3年、山本保によって創業されました。
江戸時代からの酒蔵である谷口酒造出身の保は、仏寺であった山本家の家督を継ぐことになります。
その際、生来の酒好きが高じ、酒蔵を創業します。
当時の山号寺号が「無量山超願寺」であり現在でも「超願寺」という屋号で呼ばれることがあるのはこのためです。
そのようにはじまった酒造りですがこれまで幾度か廃業の危機にさらされてきました。
第二次世界大戦中、激しくなる戦局に国から命じられ酒造の休業をしいられます。
さらに戦後しばらくしても酒造免許の再開を許されず、二代目である保正は国会に足を運び陳情演説などもおこなったようです。
そして情熱の末にようやく再開の許可がおりました。
平和酒造という名は「平和な時代に酒造りができる喜び」から取られています。
戦後10数年たった後に溝ノ口で酒造りを開始します。
残念なことに、一度休業した酒蔵を自力で立て直すのは難しく、昭和60年代まで京都の大手メーカーの桶売り蔵として自社ブランドは細々と販売していました。
しかし、自分達が造りたい物を造ろうという想いから自社ブランドに力点を置き始めます。
近年では若い杜氏、蔵人が集まり、新しい酒造りをはじめています。
酒造りに対するコダワリや特徴
平和酒造のある溝の口は和歌山でも山間の盆地に位置します。
古代から集落が形成されており縄文後期の土器が出土したほど稲作の盛んな土地です。
また盆地であるため朝夕の冷え込みが厳しく、紀州の山々に降り注いだ雨水が木や土によって濾された良質な地下水が豊富にあります。
口当たりが優しく、切れのいい酒質はこの良質な軟水の湧き水からきています。
鮮烈でみずみずしさがあり旨みのある冷えた湧き水のような味わいを表現。
また「次世代のスタンダード」になる酒を作るべく若い飲み手にもおいしいと感じてもらえる、
飲みごたえよりも飲みやすさや口の通りのよさを大切にしています。
口にした際、紀州の風土を感じられるようなお酒、それが「紀土」です。
蔵元の思い
造り手としていい物を造りたいという気持ちを持ち続け
毎年毎年、地道な活動を続けてきました。
日本酒の本当の魅力を伝えていきたい。
若い人たちにもっと日本酒を味わってもらいたい。
紀州の風土を感じてもらいたい。
そして、試行錯誤の上やっと出来上がった酒
―紀土KID